こだわりからの離陸(79) 1999年「宇宙の理」9月号
(5人のヒロ)

 私の会社での仕事が今、とても停滞しているのですが、私の周りで仕事に関連して大きな共時性や超偶然的な現象が起きると、私は『これは大きな困難が待ち受けているので、神様は心強くいなさいと励ましてくれているのだろう』というような想いを持っていたのです。
 しかしここに来て、仕事が進まないのは自分が自分の前に多くの困難が待っいると決めつけてしまったことによると※気付き初めました。すると、それが困難な現実を創っていると知らせるような人の助言もやって来たのです。
 この様に、宇宙は初めから回答を安易に呈示しないのが普通です。私の経験からは先に必ず〃気付き〃があり、後でそれを人や本を通じて確認させるように現象をそっと置いてくれるのが常

 現れたヒントから、エネルギーの流れを自分の都合良いように安易に解釈すると、現実は真の自分が望んでいない方向に造られるでしょう。特に恐れやウヌボレ、楽しようとする想いは神と繋がる糸を切るようなものです。直観は常に神の想いとは別の方向からも同時に送られています。自分の中に欲や恐れや怠け心がある限り、それに同調した想いが心の中から湧くものです。

 思考は現実の実現に大きな影響をもたらします。余計なことを考えないで前を見て黙々と進むことの大切さを学んでいます。ボーッとして直観のままに進むのも大切なことです。


 さて、本題に入ります。私の周りに起きた偶然的出来事を書いていると、「私にはこういうことは起きて来てくれない」と考える人がいるかも知れませんが、それは違うと思います。確かに私の場合には(もしもこういうことを書く役割があるとすると)他の人と比べて多少ダイナミックに起こしていただいているかも知れませんが、多少の違いはあれ、こういうことは誰にでも起きていると考えます。ただ気付かないだけです。実際、皆で共有する三次元世界ですら、ちょっと見渡すだけで奇跡に満ち溢れています。

 ここでは、意識を向けていないことで気付かなかった天の標(しるし)についての例を、最近の出来事をもとに書いてみます。
 私は二年ほど前に知人のアメリカ人女性からある写真を見せられました。それは病院の診察室の壁一杯に画かれたヒーリングアート(癒しの絵)でした。それを見たときに私は直観的に「これをしたい」と思いました。
 そしてそれを画いたアメリカ人の画家を紹介してもらい、それを自分の仕事に取り組むべく計画し、準備を始めました。その過程でインテリアコーディネーターとして著名なM広子・宏子さん(彼女は二つの名前を使い分ける)にこの仕事に協力をいただけるよう依頼しました。予断ですが、インテリアコーディネーターという言葉は彼女が作った和製英語です。
 そして彼女の事務所に伺いました。
 Mさんとは意気投合して是非ともこの仕事を協力して行こうということになったのですが、そのとき一人の男性が同席しました。「弘美」さんでした。

 私は会社に戻って名詞の整理をしていたときに、今日は名前にヒロとつく人間が私(弘之)を含めて3人集まったことに気付きました。そのときは『偶然だろう』『縁起がいいな』という程度の思いでした。そしてその時ふと『いつも自分の上司を無視して私一人でドンドンと仕事を進めてしまうので、次回は、Mさんの事務所に伺う時は彼を連れて行こう』と思いました。
 そのとき、彼の名前も「」であり、ヒロが4人揃ったことの気付きに到り、『これは偶然ではない』と直観がやってきました。
 そして後日、電話でMさんと話しをしていたら、彼女がこう言うのです。「こんど日経さん(私の勤める会社)と私たちとの橋渡しをする人間を決めましたので、次回いらしていただいたときに紹介しますね・・・」と。
 私はそのとき確信しました。『その人の名前にも「ヒロ」の文字が入っている』と。

 果たして、私の努める会社とMさんの会社を繋げる人の名は、「千尋(ちひろ)」さんでした。
 この仕事に携わる人は画家のイアマテオを除いて五人ですから、五人中、五人全員が「ヒロ」の名を持って集まったことになります。これだけでも大変な奇跡だと思うのですが、更に・・・・
 千尋さん以外は全員「広げる」という意味の「ヒロ」なのですが、彼女だけが違いました。彼女は両社だけでなく私の会社とクライアント(病院)を繋ぐ役割も持つ予定でした。彼女の名前の「尋」の文字の中には「エ」と「口」の文字がありますが、このそれぞれに「ナ」の字を入れると「左」と「右」になります。この文字には引き継ぐという意味があるのですが、左右のバランスをとる、左右を繋ぐ、という意味もあるのかも知れません。彼女の役割を彼女の名が自明にしているようです。

 このチームは結局うまく行かなかったのですが、自分でもそうなるだろうことは何となく分かっていましたので気になりませんでした。大切なのは、この現象化のシンボリックな意味を正しく理解することなのです。

 さて、その意味は別として、ここで私が言いたいことは、私がこのことを他の四人に告げなかったら、私以外は全員この奇跡に気付かなかったという現実があることを先ず、認識していただきたいと思います。

 この現象は確実に起たのに、全員気付かなかった(しかも一人は神の創造を笑って否定した)のです。ですから気付きのエネルギーは私に一番多く流れていたとしても、こういうヒントは誰にでも与えられているのに、みんな自分の周りのヒント(神の意志)に意識を向けずに気付かないばあいがホントに多い、と私は言うのです。

 もし、人生は自分の心の反映であることに全く目が行かず、それ故に自分の周りの出来事と自分の心を照らし合わせる習慣を持っていなかったり、初めから神の存在を否定し、霊的(共同)創造を認めないのなら、気付きは尚更遠退くことでしょう。

 ヒントがシンボリックに現れることは、誰にでも確実に起きています。起こしていただいています。
 そして共同創造の観点からは、自分の魂も意識的に創造に参加しているので、もっと好奇心を持って現実を観て良いと思います。見るべきだと思います。
 自分が自分の魂と繋がる程に、気付きは正しい(ワクワクするような)ものとしてやって来るでしょう。

 そして社会情勢を含め「自分の環境は自分の心が創り出した自分の反映」という謙虚さを持つことが、現象をシンボリックに観れるようになる以前の基本姿勢であり、コツでもあります。もしこれが出来ないとすると、被害者意識で生きて、因果の全てを自分の外に置いてしまう思考を身に付けていると言えるでしよう。
 それでは、余りにも勿体な過ぎることではありませんか。

 最近、勝負事の敗北からリベンジ(復讐)という言葉を巷でよく耳にしますが、こういう意識も被害者意識が元で創り出されます。弱いのは、負けたのは、他人ではなくて自分が原因なのです。ですから先ず為すべきことは、リベンジではなくて自分を磨くことなのです。

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